くれなゐ香る 後編
「ああっ、もうっ!」
ぷつりと切れた手の中の糸をセイが睨みつけた。
淡い行灯の明かりを頼りに繕い物をしていたセイだが、先程から幾度も糸を切っては
縫い直す事を繰り返している。
「それもこれもっ!」
せっかく縫った場所の途中で無残に切れた糸の端が、セイを笑うようにふわふわと揺れる。
苛立ちを増長させるような動きが勘に触って、つまんだ糸を思い切り引っ張った。
「痛っ!」
ぴり、と走った痛みに指先を見てみると、糸で切れた細い線からジワリと血が滲んできた。
「・・・・・・・・・・・・はぁ・・・」
傷ついた指先を咥えながら溜息を落す。
予測しなかった痛みが頭に上っていた血を少し冷やしてくれたようだ。
総司が浮気などしていない事など、セイにしてもわかっていた。
あれほどの妻馬鹿は見た事が無いと周囲が呆れ返るほどの男なのだから。
ましてその対象となっているセイだ。
総司の溺愛というか、執着というか、一種異様な愛情は身をもって理解している。
そしてあの男の野暮天具合を誰よりも熟知しているのもセイだったのだから、
今日の騒ぎの背景もおおよそ予想がつくものだった。
気さくで明るい好青年が時折見せる剣士の顔。
欲の混じらない涼やかさは、血生臭い斬り合いの場では尚の事に際立つのだ。
それを眼にして惹かれない女子は少ないだろう。
無意識に撒き散らすのだ、初夏の風のような爽やかさを。
黒ヒラメのクセに・・・。
セイの眉間がじりりと寄せられた。
あの娘もそんな姿を見たのかもしれない。
そしてうっかり惚れこんだのだ。
当の男は全く理解していないというのに・・・。
必死に恋情を訴える娘の姿に困惑しきった表情が、総司の与り知らぬ事だと
如実に証明していた。
気づいていなかったのだろう。
鬼の住処と言われる屯所にまで乗り込んでくるほど募らせていた想いにも。
あの娘はそこに到るまで、どれほど態度で表していたのだろうか。
どれだけ切ない想いを抱いていたのだろうか。
あんな黒ヒラメのために・・・。
在りし日の自分の姿と重なって、セイの胸の内でフツフツと怒りが滾ってきた。
どうしてくれよう、あの黒ヒラメっ!!
――― ぎぃぃぃっ
眉を吊り上げ怒りを新たにしたセイの耳朶に、裏木戸が軋む音が飛び込んできた。
この家の裏木戸には井上苦心の細工が施されていて、普通に開けると
大きな音が響くのだ。
コツを知らない招かれざる誰かが敷地に入ってきた場合、それを知らせる役目を担う。
音を拾うと同時に面に緊張を走らせたセイが、部屋の隅に立てかけてある
愛用の脇差へと手を伸ばそうとした。
――― ドンッ!
裏口の板戸が大きな音を立てた。
すわ、襲撃かとセイが脇差を握り締めた。
――― ドンドンドンッ!!
「セ〜イ〜! たぁだぁいまぁ〜〜〜」
シンと静まった夜気の中、漂う緊張感を傍若無人に押しのける
何とも暢気な声が響き渡った。
「セ〜イ〜! あ〜け〜て〜!」
――― ドンドンドンッ!!
「ちょ、ちょっと何を騒いでるんですか、総司様っ! 近所迷惑です!」
慌てて裏口へとやってきたセイが心張棒を外して戸口を開けようとする。
「は〜や〜く〜!」
ガタガタと外から揺する音に急かされて戸に手をかけるが、どういう訳か開かない。
ひどく重たい戸を何とかこじ開け、顔を半分出したセイがガクリと肩を落とした。
呆れるほどに泥酔している男が両足を地面に投げ出し、戸口に寄りかかって
座り込んでいるのだ。
これでは向こう側から押さえつけられているのと同じではないか。
「総司様っ! どいてください。戸に寄りかかっていては開けられません!」
「ん〜〜〜・・・」
小さな唸り声と共にパタリと男の体が前に倒れた。
ちょうど腰を起点に二つ折りになったため、苦しげな手がパタパタと地を叩いている。
「総司様っ!」
ようやく開いた戸口から転がるように飛び出したセイが、総司の傍らに膝をついた。
「う〜〜〜、だぁるぅ〜い〜」
上半身をセイに抱え起こされた男の瞳は朦朧としている。
ちっ、と小さく舌打ちした女子が総司の腕を自分の肩にかけた。
帰ってくるなと言っただろうとか、この醜態はどういうつもりだとか、色々と
言いたい事はあるけれど、いずれにしてもこんな所でする話ではない。
「とにかくこんな場所に座り込んでいたら身体に障ります。中に入りますよ?」
「う〜〜ん・・・」
小さな体に支えられてよろよろと立ち上がり、そのままふらふらと家の中へと
入った男が、土間の上り口から繋がる板の間に倒れこんだ。
ひとまずそれを放置して戸締りをしたセイが、茶碗に水を汲んで戻って来た。
「ほら、これを飲んでください! まったくこんなに酔っ払って、何かあったら
どうなさるおつもりですかっ!」
「だいじょぶ、だいじょぶ〜。わぁた〜しはいっちばんたぁいくみちょ〜でぇすからぁ、
つよぉいんでぇす〜よぉ」
へらりと笑いながら起き上がった男が、セイから受け取った水を飲む。
平衡感覚が狂っているのか、半ばを胸元に零しているのを慌てて拭いながら
セイが大きな溜息をついた。
一番隊組長だからこそ危険なのだと知らない男ではないだろうに。
いつどこで誰が狙ってくるのかわからないものを、こんなに無防備に
正体を失くすほど酔っ払うなど・・・信じられない事だ。
「いったい、どうしてこのようになるまで飲まれたんです?」
総司の胸元を拭いた為に水気を含んだ手拭いで、ちょうど良いとばかりに
へらへら笑みを浮かべている顔を拭ってやりながら尋ねた。
「だぁぁぁってぇ〜・・・」
「だって?」
右に左にと体を揺らしながら総司が眉間に皺を寄せた。
「さぁいとうさぁんと〜、ながぁくぅらさぁんたちが〜、うちにぃいくぅっていうからぁ〜」
「は?」
酔っ払い特有の行きつ戻りつする話をまとめると、巡察を終えた総司を
待ち受けていた永倉達が、セイを慰める為に家へ行くと言ったらしい。
甘味処の娘騒動でセイの怒りを買い、屯所に泊まるようにと言いつけられた
総司にすれば、当然そんな事を許せるはずが無い。
大事な妻はきっと傷ついているはずなのだ。
そんな時に他の男が近づくなど冗談ではない! ・・・と思ったらしい。
「で・・・それとこの醜態がどう繋がるんですか?」
半眼で問われた男が得意気に笑った。
「のみにぃさそってぇ〜、よいつぶしちゃいましたぁv」
「・・・・・・・・・・・・」
額に手を当てたセイが、がっくりと項垂れた。
原田は自分の欲求のまま飲み倒して、勝手に潰れた事だろう。
だが永倉や斎藤が総司如きを相手に潰れるはずがない。
つまりは潰れたふりをしてくれたという事だ。
その理由など考えるまでもなくセイには理解できてしまう。
いくらなんでもあれほどの騒ぎとなれば、筋金入りの野暮天男といえど
自分に非のある事に気づかぬはずがない。
セイがどれほど怒り、傷ついているか。
それを思えば少しでも早く家へと戻って謝りたいし、誤解も解きたい。
けれど帰ってくるなと言われたのに、勝手に帰っては尚更怒らせてしまうだろうか。
でも少しでも早く謝りたい。
傍で見ていてもわかるほどに内心で煩悶していただろう男の姿が、
セイの脳裏に浮かんだ。
強くもない酒を飲ませる事で細かな躊躇いを失わせ、“帰りたい”という一点に
向かわせたのは、多少乱暴であろうとも仲間達の気遣い以外の何ものでもない。
タダ酒が飲めるという報酬を計算しての事だとしても・・・。
「セ〜イ〜、おみずぅを、も〜いっぱいくっださぁ〜い」
ずいっと総司が茶碗を差し出した。
「はいはい」
それを受け取ったセイが土間に下りて水を汲む。
ふと茶碗を脇に置いて屯所の方向へと手を合わせた。
ここまで酔った総司を、あの男達が一人で帰らせるはずが無い。
面倒がった永倉に押し付けられた斎藤が、酔っ払いが不慮の事態に
巻き込まれぬようにと、着かず離れずで送って来てくれたに違いない。
(兄上、いつも、いつも、い・つ・も! お世話をおかけして申し訳ありません)
心の中で声を大にして、礼と謝罪を叫んだセイだった。
「はい、どうぞ」
ずいっと差し出された茶碗の水を、今度は零さず一息に飲みきった総司がにへら、と
笑いながらセイの膝に頭を乗せてきた。
「ちょっと、総司様っ! やめてくださいっ!」
「いいじゃあないですかぁ、すぅこぉしぃだけぇ〜」
膝から頭を落そうと身じろいだセイを離すものかとばかりに、腰を抱え込んだ総司が
ぐりぐりと顔を擦りつけてくる。
――― こっの酔っ払いがっ!!
思わず拳を握ったセイだったが、あまりにも嬉しそうな男の表情を見てしまえば、
その拳を振り下ろす事が出来なくなった。
酔っているせいか常より荒い総司の呼吸音だけが空間を微かに揺らし、
時折遠くから聞こえる野犬の吼え声が、夜の深さを知らしめる。
黙りこくっていたセイが、ようやく口を開いた。
「あの・・・娘さんは・・・」
「・・・沖田の身内は浪士に付け狙われる、と聞いて逃げ帰ったそうですよ」
セイの身体に顔を押しつけたままの総司が静かに答えた。
少しは酔いが醒めたのか、間延びしていた言葉も常に近く戻っている。
「誰だって怖い思いなんてしたくないですよね。
私だって大切な人を危険に晒したくなんかないです」
「・・・・・・・・・・・・」
「だからずっと独り身でいるつもりだった事は、貴女もよく知ってるでしょう?
大事な人だからこそ身近に置けないと思ってた。血を吐く思いをしようとも、
手放す事が情だと信じてたんです。でも・・・それでも離す事が出来ない人が
できてしまった」
総司がセイから顔を離し、閉じていた瞼をゆるやかに開いた。
そこには酔いの残滓は無い。
「私はね、セイ。貴女以外の人は絶対に傍に置く気は無いんです。
今日の事は私が悪かったのはわかってます。貴女の事も、あの娘さんの事も、
きっとひどく傷つけた事でしょう。その事は貴女の気が済むまで何度でも謝ります。
ただ・・・」
総司の瞳が請うような祈るような、切望の色を宿して瞬いた。
「ただ、何があろうとも、誰が何を言おうとも、私の気持ちだけは疑わないでください。
貴女以外に私が必要とする女性はいない、それだけは疑わないで」
そうっと伸ばされた総司の指先が、セイの頬に添えられた。
その手の平に頬を擦り付けようとしたセイの動きがピタリと止まる。
「でも・・・夫婦にならなければ良かった・・・って仰ったんじゃありませんでしたか?」
一瞬で甘やかな空気が真冬の大気へと変容した。
総司の頬が微妙に引き攣る。
「いや、あれはですねっ!」
「自分をないがしろにする妻などいらない・・・とも」
「そっ、そんな事は言ってません!」
「・・・・・・・・・・・・」
じっ、と責める視線を向けられた総司が、再びセイの身体に顔を埋めた。
「だって・・・隊士だった頃のセイは、いっつも私の事を一番大事にしてくれたのに、
夫婦になってからは、ちっともかまってくれなくなったじゃないですかぁ」
「そんな事は・・・」
「ありますよっ! いっつも忙しい忙しいって! “釣った魚にエサはやらない”
というのは男側の言葉だと思ってましたけど、釣られた魚は私の方なんだろうか、
って思えちゃいましたもん」
じっとりと見上げてくる瞳は実に恨めし気で、思わずセイは視線を泳がせた。
確かに家の事と屯所の仕事を抱える毎日は多忙すぎるほどに多忙だった。
まして長い事女子であるのを隠していた自分を責めたり侮蔑したりする事無く、
今も変わらず接してくれる仲間達の役に立ちたいと屯所の務めに力を入れていた。
必然的に夫である総司との時間が削られていたのだ。
過剰なほどに甘えたがりのこの男は、それが寂しくて仕方がなかったのかもしれない。
膝の上にある男の前髪を細い指が優しく梳いた。
それが気持ち良いとばかりに総司の瞼が閉じられる。
「家の事も隊の仕事も疎かにしたくなかったんです」
癖のある髪を幾度も撫でながら、セイが呟いた。
「・・・・・ええ・・・」
「総司様をないがしろにしたつもりは無かったんです」
「・・・・・・・・・・・・」
セイの本心を百も承知の男は長い沈黙の後、自分の髪に触れている指先を
手の中に包み込んだ。
「明日は私、非番なんですよ」
「はい」
「だから、一緒に紅葉狩りにでも出かけましょう?」
紅葉し始めた嵐山でも良い、賑わう東山も楽しいだろう、人の少ない北山ならば
セイも気兼ねなく手を繋いで歩く事ができるだろうか。
ほんのちょっとだけ入ったヒビをそうして埋めてしまおう。
自分の感じていた寂しさも、セイが感じただろう悔しさも悲しさも、
龍田姫が統べる紅色に染め替えてこよう。
そして仲直りをすれば良いのだ。
総司の意図を理解したセイがこくりと頷いた。
「明日は少し寝坊して、一日のんびり過ごしましょうね」
「もう・・・総司様ってば」
くすくすと笑うセイから承諾を貰った男が、嬉々として温かな膝から起き上がった。
「じゃあ、さっさと寝ましょう!」
「あ・・・では、今総司様のお布団を・・・」
帰ってくるなと言われていた夫が帰宅するとは思っていなかったため、
寝間にはセイの布団しか敷かれていない。
総司の分を用意しようと立ち上がろうとしたセイの身体が空に浮いた。
「きゃっ!」
「いりませんよ」
「総司様っ?」
いきなり抱き上げられたセイの悲鳴など知らぬふりで、総司が寝間へと歩き出した。
「一組あれば充分です」
「えっ? いっ、嫌ですよ。だって総司様ってばお酒臭いし!」
シダバタと暴れる柔らかな身体を逃がさないよう、腕に力を込めた男がニヤリと笑う。
「問題無いでしょう。だって貴女もすぐに酔ってしまうんですから」
――― わたしに、ね
言葉と同時に行灯が消えた。
翌日、新選組一番隊組長夫婦が無事に紅葉狩りに出かけられるのかは、
・・・・・・妻の機嫌と体力次第。
前編へ